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おかしなコメントをして、恥をかかないようにしよう
前回、「読解力のつけ方」について記事を書いた。
「文章を読む前には、個人的感情や意見はリセットをすること」「反論も賛同も意見するのはまずは読み終えてから」とも書いている。
それでは、今回はその続きとして、「コメントする前に、特にチェックすべきポイントを3点書く。
これを守れば、コメントした後に恥ずかしい思いをしたり、罪悪感にさいなまれることもなく、感情に振り回されずに済む。また、「こいつ、クソリプしやがって・・・」と思われることも回避できるはずだ。
ぜひその3項目だけでも、チェックしていただきたい。
「クソリプ」とはどんなもの?
クソリプとは?
クソリプとは、クソみたいなリプライのことである。物凄くひどい返事&コメントだと思ってもらえればいい。
クソリプがどんなものかの例はこちら。4年前のツイートだがわかりやすい。
→ https://togetter.com/li/722471
クソリプの定義は難しく、受け取った本人が「このリプライは、つまらないからクソだ」と思ってしまえばクソリプとも言えてしまう。
このように、受取人によっては何がクソなのか異なる。
そのため、今回の記事においては、内容に対してあきらかに的外れなことを言って不快にさせており、仲が良いわけでもない相手からのコメントに対してのみ、クソリプと言おうと思う。
そういうことで今回は、「だから何?」「あ、そうですか」と言うしかない自分語り系のクソリプには触れないでおく。また、ネタにマジレス系もかっこわるいが、さほど害はないからほおっておこう。
また、基地外系のクソリプにも触れないようにする。これは触れてはいけないし、理解できない。悪気のない暴走型だ。気をつけて変わるものではないので、とやかく言っても仕方がない。
私のクソリプ体験
以前、「中井貴一のミキプルーンのCM、久しぶりに見たいなぁ。」というような内容を書いた。本当にどうでも良い内容だ。
すると絡んだこともない人から、「ミキプルーンの会員なんですか?あの会社は、ネットワークビジネスなので買わないほうがいいですよ!」と言ったような内容を長々とコメント欄に書かれたことがある。
知らんがなと。これこそいわゆるクソリプだろう。
きっとこのクソリプをした人は、私が何者で、どんな状況・状態なのかまったくわかっていない。それにわかる気もない。読解していないのだ。
このようなクソリプは、Twitterなどの不特定多数が存在する場所で発生しやすい。そして、見ず知らずからの相手からによるものばかりだ。
自分のブログやら投稿で書けば良いものの、わざわざコメントに書き込むのが厄介だ。ここまで酷いものは頻繁にはないが、他にも今までいろいろあった。
どんな記事に対しても「おはようございます。今日も素敵な1日が訪れますように。」だとか「おやすみなさい。今日も良い夢を。」などと書き込むあいさつおじさんやおばさんも、クソリパーの一種だろう。
あいさつおじさん&おばさんは悪気があるのかどうかは知らないが、悪気なく「クソリプ」のようなコメントをしている人はよく見る。
気をつけないと私もしてしまうだろう。もしかすると、してしまっているかもしれない。もしそうであったらこの場で謝っておく。ごめんなさい。
「私、クソリプしちゃったかも!?」と気にしすぎるのも疲れる
とはいえ、「もしかして、クソリプかも!?」と気にしすぎたら何もコメントできなくなってしまうかもしれない。とはいえ、クソリプをしまくる痛い人と思われるのも嫌だろう。
そのため、「コメントする前に、せめてここはチェックしよう!」という3つのポイントをまとめてみた。
コメントする前にチェックすべき3つのポイント
最小限に抑えてみたが、この3つになる。
- 書き手は何者なのか?(状態・状況・ポジション)
- 誰に向けて書いているのか?(ターゲット)
- この文章をなぜ書いたのか?(経緯・理由)
それでは、それぞれ3つのポイントについて、細かく説明していく。
1.書き手は何者なのか?(状態・状況・ポジション)
相手のポジション・職業を把握しよう
あなたは「英語教師です。」とコラム内で書いている人に対し、「英語を学ぶにはこれがオススメですよ!」などとコメントをするだろうか?
おそらく、相手が英語教師だと分かっているのであれば、そんなコメントをする人はなかなかいないだろう。
相手が専門家だとわかっているのに、講釈を垂れるのは「釈迦に説法」そのものだ。
全ての文章に載っているとは限らないが、論文やコラムの場合であれば大抵載っている。文章内でなければ、書き手の紹介として最初か最後に掲載しているはずだ。
読んだ記事に「書き手が何者なのか」書いていなければ仕方がない。記事にも、目立つタイトルにもブログ名にも、名前横の肩書きにも書いていないのであれば、わからないのも当然だ。
ただし、少しプロフィールを1クリックすれば一瞬でわかることなのに、それさえもしないで書き込むのはよほど勇気がある人なのだろう。義務でもマナーでもルールでもないが、恥をかくのは自分だ。
コメントするということは、書き手にも他の読者にも見られるということ。書き手に「え・・・何この人・・・」と思われるかもしれないし、「あらあら、英語の先生にこんなコメントしちゃって・・・」と思われるかもしれない。
まれに、「医師です。」と書いている書き手に対し「病気とは・・・」などと講釈を垂れる人もいるが、あれは煽りとしてわざとやっているか、悪気がない痛い人なので放っておこう。
相手の状態を把握しよう
職業だけではない。書き手の状態においても、文章内に書いてあるにもかかわらず、読み飛ばしておかしなコメントをする人がいる。
たとえば、既婚者だと書いている人に対し、「婚活パーティーいいですよ!」とコメントしたら、「この人は夫婦仲を悪くさせたいのか?」とも思われる。
「この人はもしかすると夫婦仲が悪く、離婚の危機であり、新しいパートナーを探しているのかもしれない」と、そこまで考えを巡らせてコメントしてくる人はほぼいないだろう。
少なくともコメントには書かないはずだ。本当に深読みしている人ならば、個人のメッセージやDMで送ってくる。おそらく、無神経に書き込む人は何者でどんな状況なのか見ていないのだ。
確かに、広告・宣伝の場合、「もしかすると、必要としている人かもしれない」という考えから、「これはオススメですよ」と不特定多数に伝えることは多い。
だが、誰かの記事やSNS投稿に対しコメントするときは、個人対個人である。相手が何者なのか、わかるはずである。
また、「生まれも育ちも浅草です。海外旅行はしたことはありません。」と書いている人に対し、「エッフェル塔って最高ですよね。」とコメントしたら、「こいつ、何でこんなコメントしてきたのか?スカイツリーのこと言ってるのか?」と思われるだろう。
ボケたならばそれはそれでコミュニケーションにもなるのだが、いままで絡んだこともない人にいきなりふっかけるのはハイリスクだ。もし気づいてもらえなければ、きっと悲しくなるだろう。
「ダイエットしています」と書いている人に対し、まれに「このケーキ最高ですよ」と写真付きのコメントをする人がいるが、あれは仲が良いか、そういうコミュニケーションを楽しむタイプの書き手の場合のみ、成り立つものである。相手を見極めた方が良いだろう。
相手の状況を把握しよう
たとえば、ある書き手が「あのアニメを実写化した映画は最悪だ」と怒った内容のコラムを書いていたとする。
にもかかわらず、「あのアニメを実写化した映画、私も好きです!最高ですよね!」とコメントしたらおかしなはずだ。
反対の意見を持つことはかまわないだろう。問題はそこではない。相手の状況を全く把握していないのが問題なのだ。
その映画のタイトルが書いてあり、見たという事実を読んだだけで、「きっとこの人もあの映画を気に入ったはずだ」と勘違いし、こんな見当違いなコメントをしてしまうのだろう。
意外とこういう人は多い。一部分に反応してしまうのだろう。かすっているならばまだしも、ここまで正反対なことを書くと読んでいないのはバレバレだ。
コメントをするならば、せめて本文を読んでからにしよう。コメント欄は、あなたのTwitterでもブログでもない。
2.誰に向けて書いているのか?(ターゲット)
例えば、「家事の時短テクニック」という、お役立ち情報がまとめられた記事があったとする。その書き手は共働きのお母さんであり、「私と同じ、働くお母さんにお伝えしたい」と書いていたとしよう。
さらに、その記事を掲載しているのが「働くママ応援サイト」というメディアだったとする。そうなれば、そのサイトに書いてある記事というだけで、ターゲット層は「働くママ」だとわかるはずだ。
にもかかわらず、「家事で楽をしようなんておかしい」「男はみんな、家事をしないと思っているのか!」「働けない人に謝れ」「結婚できない人に謝れ」「誰しも結婚したいわけではない」「女性は専業主婦になるべきだ」などと怒る人がいる。
読むのは自由だが、そもそもその記事のターゲットではない。いちいちそんな見当違いなことで感情的になって怒っていたら、血管はどんどんぶちぎれてしまうだろう。
あくまで、ターゲットは「働くお母さん」であり、「家事を時短したい」と考え、「何か良い方法はないのか?」と探している人だ。
コメントするのは自由だが、あまりに見当違いのコメントをしたら「なにいってんだこいつ・・・」と思われるだろう。周りからも白い目で見られることは確実だ。
3.この文章をなぜ書いたのか?(経緯・理由)
メディアに掲載される記事にはだいたい書いてある
少なくとも、メディアに掲載されているようなコラムにおいては、なぜ書いたのかと言う経緯や理由はほぼ書いてある。
例えば、「私は今年、夫の転職の都合により、東京から仙台に移住してきました。移住してきた当事者として、移住のメリットとデメリットをこのコラムで書きたいと思います。なぜならば、東京にいた時に情報を全然得ることができず、不安だったからです。移住を考えている人の不安が少しでもなくなるように、コラムを書くことで協力したいです。」と書いていたとしよう。(状況としてはまさに私である。)
上記の文章には、経緯や理由が書かれている。これを読む限り、なぜこのコラムを書いているのかわかるだろう。若干、“(1)書き手は何者なのか?(2)誰に向けて書いているのか?”ともかぶってくる。
この理由や経緯を読まずに、「仙台のメリットだけ書け!」だとか「地方の現状を何も知らないくせに偉そうにするな」だとか「小娘ごときに語らせてたまるか」だとか「東京がダメだと言いたいのか?」などとコメントしたら、内容を読んでいない証拠である。(なお、私はこのようなことを言われたことはないのでご安心を。)
書き手には書き手の事情があり、その人だからこそ書けて伝えられるものがある。理由や経緯は様々だ。そこを把握した上で読まないと、なかなか文章を理解できないだろうし、おかしなコメントをすることになる。
いつも明るく元気な人にも、重くて暗い過去があるかもしれない
また、重くて暗い過去がありつつも、それを乗り越えて元気になった人が、「自分が元気に活躍する姿を見せることで、自分のように復活できるんだということを証明したい。過去の自分のような人をサポートしたい。」などというケースがある。病気や障害、事件の被害者などだ。
こういう重くて暗い過去から復活したような人は、話が重くならないように考えているのか、本当に気にならなくなったのか、重い過去を単なる転職歴かのようにさらっと書いている人が多い。
その経緯や理由になる暗くて重くて暗い過去の部分を読まず、ただ明るい部分だけ読み、「お前にこの辛さがわかるわけがない」「かまわれたいだけだろう」「いつも好き勝手やってヘラヘラしやがって」などという罵声のようなコメントを書く人も多い。このパターンもよく見る。
勝手に勘違いして、泣いたり怒ったり攻撃するのは痛々しい
おそらくそのコメントをした人は、何かしらでつらいのだろう。判断能力も失われ、自暴自棄になっているためにそういうコメントをしてしまうのかもしれない。
ただ、もし「この人がなぜこの文章を書いたのか」と言う経緯や理由さえ分かっていれば、感情的になって怒ったり泣いたりしなくても済んだかもしれない。
なにかしらに八つ当たりしたいのかもしれないが、こういう幾多の苦労を乗り越えてきたような人にぶつけても虚しくなるだけだ。菩薩のように受け入れられすぎて、罪悪感に苛まれ、自分が惨めになる可能性さえある。
怒ったり泣いたりしなくても良いことに、いちいち振り回されていたら体力が持たない。相手だって嫌な気分になる。それを見ている周りに人も「こんなこと言うんだ・・・八つ当たりにしてもひどいわ・・・」と思われて引かれてしまい、孤立するかもしれない。これでは誰も何も得しない。
書き手の人は公表していないのであれば、わざわざ聞きまくったり、しつこく調べる必要もない。そんなことをしたら迷惑だ。
ただし、その人が書いた文章内に、書いた経緯や理由が載っているのだとしたら、それは把握しておく必要がある。把握しておかないと、その文章を正しく理解できない可能性があるからだ。
過ちを犯さないためにも、なぜこの文章を書いたのか把握した上で、コメントをしよう。
「クソリプ」して損するのは自分
コメントは自由だ。不愉快で不快なコメントは避けていただきたいものだが、犯罪予告や脅迫ではない限り、取り締まることはできない。
コメントするのは自由とはいえ、おかしなコメントをして損をするのは自分である。自分は言ってスッキリしたつもりかもしれないが、相手からもそのコメントを見た周りからも、「なんだこいつ・・・」と思われるに違いない。
誰かの記事にコメントをするときは、「自分の文章も読まれている」という意識を忘れずにしていきたいものである。