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「語彙力・要約力・論理的思考力」よりも必要なこと
「読解力ってどうやったらつきますか?」とたまに聞かれることがある。なぜ私に聞くのかとも思うが、おそらくコピーライターやライターとして生計を立てているからだろう。
一般論で言えば、「語彙力・要約力・論理的な思考力を鍛えること」だと思う。実際、このようなことを語っている記事や書籍はいくつか見かけた。
しかし、もっと必要なことがあると私は考えている。それは、「冷静に判断し、フラットな気持ちで文章に向き合うこと」だ。
読解するためには、語彙力・要約力・論理的思考力ももちろん大事である。ただし、それらだけあっても意味がない。
まずは、冷静に、フラットな気持ちで文章に向き合えなければ、正しく文章を読解することはできないだろう。
そもそも「読解力」とは?
まずは、「読解」とは何か調べてみた。
どっ かい どく- [0] 【読解】
( 名 ) スル
文章を読み,その内容を理解すること。 「長文を-する」 「 -力」
(引用元:三省堂 大辞林)
「読解」とは、文章を読み、その内容を理解することである。漢字からイメージする内容そのままだ。
このように考えると「読解力」というのは、文章を読み、その内容を理解する力だ。
当たり前のようなことを言っているが、重要なことが書かれている。「理解すること」という箇所だ。
念のため、「理解」についても書いておく。
( 名 ) スル
①
物事のしくみや状況,また,その意味するところなどを論理によって判断しわかること。納得すること。のみこむこと。 「内容を正しく-する」 「 -力」
②
相手の立場や気持ちをくみとること。 「 -ある態度」 「相互の-を深める」
③
道理。わけ。また,道理を説いて聞かせること。 「義理ある兄貴の-でも/人情本・軒並娘八丈」 → 理会
④
「 了解 」に同じ。 〔同音語の「理会」は物事の道理を悟ることであるが,それに対して「理解」は物事の意味・内容をわかることをいう〕
(引用元:三省堂 大辞林)
「読解」の意味、「文章を読み、その内容を理解すること」における「理解」とは、上記の①か②に当てはまる。
あえて、「理解」と言う言葉を使わずに、「読解」の意味を説明するならば、
- 文章を読み、その内容を論理によって判断しわかること
- 文章を読み、その内容を納得すること
- 文章を読み、その内容をのみこむこと
- 文章を読み、その内容から相手の立場や気持ちをくみとること
ということになる。読解力に関しては、上記説明の「こと」の部分を「力」に変えれば意味はわかると思う。
読解に必要なのは、冷静な判断力とフラットな気持ち
「読解」や「理解」の言葉の意味を調べて感じたことは、
- データの説明文・論文における「読解」
=論理的に判断すること - 書き手の意見文・コラムにおける「読解」
=相手の言い分・立場・気持ちを受け止めること
だということだ。
このことから、「読解力をつけるために必要なこと」として、下記のようにも言えるのではないだろうか?
【「読解力」をつけるために必要なこと】
- 「読解」の意味その1
= 論理的に判断すること(=感情に振り回されない)→ “冷静な判断力”が必要 - 「読解」の意味その2
=相手の言い分・立場・気持ちを受け止めること→ “フラットな気持ち”が必要
冒頭で、読解力をつけるためには、冷静に判断し、フラットな気持ちで文章に向き合うことが必要だと言ったが、あながち間違っていないように思える。
感情的にならず、フラットな気持ちで、冷静に判断
「反論してやろう」と、斜に構えて読んでいたら危険
文章を読み前から、「反論してやろう」と思って読んでいないだろうか。反論するのは悪くはない。読み手には、自由に自分の意見を考えて、言う権利はある。
ただし、意見を言うためには、まず「この文章は何が書いてあるのか、読み手は何が言いたいのか」を理解しなければ、それに対して正しい反論ができない。
感情的になっているのでフラットな気持ちになれず、冷静に判断できていない。「反論してやろう」と思うあまり、自分の都合の良いように話を歪めてしまうからだ。
「こいつ嫌いなんだよな」「どうせ俺とは違う意見を言っているに決まっている」「この記事はクソなんだと証明して、価値を下げてやろう」などと思ってから読んでいるならば、正しい判断ができていない。
まず、読む前にいったん、書き手に対する個人的感情・意見はリセットしよう。
確かに、あなたにとって嫌いな相手であり、反対意見を持っている相手かもしれない。とはいえ、いつもそうだとは限らない。状況や環境、時代が変われば、意見も書くことも変わっているかもしれないのだ。
個人的感情や意見は、読んだ後にしよう
個人的感情を持つのは、その文章を読んだ後でも遅くない。読んでみて「ああ、やっぱりこの人とは意見が合わないや」だとか「この説には賛同できない」と思うのは自由だ。
ただし、読む前から反論モードになっていても、途中から「はーこいつ、わかってねーなー」だとか思いながら読み進めていたら、冷静ではいられない。
それに途中で「違う!お前はおかしい!そんな考えは絶対許さないからな!」などと思い始めると、頭は拒絶して曲解し始める。まともに文章なんぞ読めたものではないだろう。
頭に血が上って冷静になれない時は、文章が頭に入りにくくなる。その傾向がよくある人は、「読解力」がないから勘違いして怒るのではなく、勘違いして怒るから読解力がないと判断されるのだ。
そのような状態ならば、頭に内容が入ってこないはずだ。把握した気になっているだけで、それは自分の都合の良いように歪めた内容である。
また、色眼鏡をかけて見聞きすると、話の解釈を自分の都合良いように変えてしまう。コメントなどで激怒しながらおかしな反論をすると、盲点を突かれてやり返されるので注意。
賛同しすぎるもの危険
反論モードとは逆パターン。読む前から、賛同しすぎるのも危険だ。「この人、大好きなの!だから、絶対こんな風に言っているに違いないわ!」だとか思い込んだまま読み進めると、これまた内容が頭に入ってこないし、自分の都合の良いように歪めてしまう。
大事なことなので二度言うが、読む前にいったん、書き手に対する個人的感情・意見はリセットしよう。
あなたが好きなその人は、変わっている可能性がある。また、その人の文章ではあるものの、その人そのものではない。
それに、好き嫌いの感情は悪くはないが、判断能力を狂わせる。そのため、正しく読み解きたいのであれば、まずは個人的な感情はリセットした方が良い。
また、意見ではなく論文だった場合でも、よく読んでみたら違っていたというケースもあるだろう。
自分の都合よく、勝手な解釈するのはやめよう
展開を予想しながら読むことは悪くはない。ただし、「きっとこのような展開に違いない」「こうであってほしい」と決めつけて読むのはよろしくない。
内容が頭に入ってこないこないからだ。無意識のうちに自分の期待した展開にさせようとするので、誤った解釈をしてしまうだろう。
例えば、犬を飼い始めた人の記事を読んでいたとする。そして読んでいる人は、隠れ猫好きは全世界にいると信じ込んでおり、人類は皆、なによりも猫を崇めるべきだと考える、過激派の猫様原理主義者だと仮定しよう。
「この人は犬好きと言っているけど、きっと猫様のが好きなんだわ。この文章の中にも、きっとそんなことが書いてあるはず。」とか「ああ、この人にとっても猫様=神様だから、好きとか畏れ多くて言わないのね。」などと思いながら読んだとしたら、だいぶずれた内容になる。
また、書き手に対して意地悪な見方をしながら読んだ場合、「本当は犬嫌いなのに、好感度アップのために飼い始めたふりをしているはずだ」「きっとどこかに売り飛ばすに違いない」などと思い込んで読めば、そうにしか思えなくなる。
その自分が期待した内容を真実だと証明するために、「どこかに犬嫌いだとわかる文章はないか」「実は飼っていないとわかる部分はないか」などと探しながら読んでいたら、おかしなことになるのは想像できるだろう。
人は自分の望んだ解釈で、見たいようにしか見ない。それは、読みたいようにしか読まないとも言える。
その習性を必ず取っ払うのはむずかしいと思うが、「自分はもしかすると、読みたいように読んでいるのかもしれない」という習性をわかった上で、読みのでは全く違うはずだ。
だからこそ、先に「こんな展開になるに違いない」などと決めつけて、勝手に解釈するのはやめよう。それでは、読解はできない。
まずは、文章を正しく読もう。
文章を「受け入れる」ではなく、「受け止める」
私は先ほど、「読解力をつけるためには、冷静に判断し、フラットな気持ちで文章に向き合うことが必要」だと言った。
だが、読んだ時にその文章を受け入れる必要はないと、感じている。文章を「受け入れる」のではなく、「受け止める」ことが大事なのだ。
「共感なんてできない」と思うことはあるだろう。それは問題ない。受け入れる必要はない。所詮、他人の文章であり、他人の意見だからだ。
ただし、「私はそう思わないけどな」という気持ちがあっても、あくまで一意見として読むことがポイントだ。
文章を読む時は、客観的な視点が大事である。そこに、個人的感情はいらない。
はじめから、「反論してやろう」などという気持ちで読むと、ただのあら探しになってしまう。
また、受け入れようとしすぎると、感情移入や共感しすぎてしまうだろう。そうすると、冷静に判断し、フラットな気持ちで文章に向き合うことができなくなる。
まずは状況把握。「なるほど。この人の意見は〇〇なんだな。」「この内容は、〇〇は正しいと証明している文章なんだな」と読む。
そして、読んだ後に意見や感情が湧き出てきたのならば、「私はこう思う。」などと考えれば良いのだ。
個人的な意見や感情はまずはリセット。読んだ後にあらためて考えれば良い。そうすれば、冷静に判断し、フラットな気持ちで文章に向き合うことができるはずだ。
日常も、読解力を鍛えるトレーニングになる
読解力が必要なのは、文章を読んでいる時だけではない。日常会話や話し合いの場でも同じである。
相手のことを信用しすぎるのも、疑いすぎるのも危険だ。これは、文章でも対面でも変わらない。情報や意見をそのままの状態で受け取れなくなるからである。
他人の意見を聞いていたはずなのに、いつのまにか脳内で自分の意見にすり替わっていることはないだろうか。
相手の話はまだ終わっていないのに、途中で「何言ってんだこいつ?俺は絶対そうは思わない」と遮断してしまうことはないだろうか。
自分の意見で頭が埋め尽くされてしまったら、上の空になってしまうだろう。そのような状態ならば、相手がどんな意見を持っているのかわかりっこないのである。
はじめから、相手の意見を理解する気がないならば、聞いたふり読んだふりでも良いだろう。それに、結論が見えない話を聞いたり読んだりするのはつらい。その気持ちはわかる。(そんな広告・宣伝を見た場合は、捨てたり無視で良いと思う。)
だが、「相手の言っている内容を理解したい」「この文章を読解したい」とほんの少しでも思っている場合は、一意見として一通り聞いて(読んで)受け止めることが大事になる。
「なるほど。この人の意見は〇〇なんだな。」「この内容は、〇〇は正しいと証明している文章なんだな」と、状況把握するのだ。
日頃からこのように考えていれば、読解力をつけるトレーニングになる。それに、いちいち感情にふりまわされず、冷静に判断できるようになるだろう。
誰かの文章にしろ、発言にしろ、あくまで一意見であり、情報の一つに過ぎない。それをそのまま受け止めてから、自分の意見なり感想なりを言えば良い。
そして、この私が書いている記事も、あなたにとっては他人が書いた一意見であり、あくまで情報の一つに過ぎない。なので、鵜呑みにする必要もない。
冷静にフラットな気持ちで読み、内容を把握していただけたのならば、あなたがどのように感じても、どのような意見を持ったとしても、それはあなたの自由である。