Contents
「日本を元気にしたい」は常套句
「日本を元気にしたい」と言う人がいる。割とホームページや広告でも見かける言葉だろう。
実際私も、今まで何度も経営者や個人事業主の方々などから広告やホームページに「理念や目的として記載して欲しい」と頼まれて書いたことがある。その方々が言うのだからそうなのだろう。私がとやかく言う筋合いはない。
しかし「日本を元気にしたい」と言うのはどのような思いで言っているのだろうか。
よくよく聞いてみると、
・日本の会社を元気にしたい
・日本の若者を元気にしたい
・日本の中高年を元気にしたい
など「日本の◯◯を元気にしたい」と〇〇がそれぞれ異なる。
だが、大概経営者の方が言う「日本を元気にしたい」は、売上を上げる、売上をもたらすなどマネタイズ系が多い。経済的に潤って元気になると、結果的に心身ともに元気になると言うことだ。これに関しては異論はない。
元気にする余裕はあるのか?
「日本を元気にしたい」と言う本人が元気でないと説得力がない。少なくとも精神的には元気で、あらゆる意味で余裕がなければ綺麗事に聞こえる。
あらゆる面で余裕がある経営者などが言っているのであれば納得できる。元気を日本に分け与える境地まで達したのだなと。
企業ホームページに書いてあっても特に気にも留めない。正直よく聞く言葉なので響きもしないがだからと言って嘘だとは思わない。
しかし、幸薄そうであらゆる面で余裕がなく苦しんでいる人に「日本を元気にしたい」と言われたところでむしろ心配になるしまずはあなたが元気になるべきだと思う。
今にも潰れそうな会社や経営者が本当に「日本を元気にしたい」と思うのだろうか。
いずれ成功して余裕ができたら「日本を元気にしたい」と考えているのならばわかる。だが、生きるのに精一杯な人が「日本を元気にしたい」と考えているとは思えない。
即身仏にでもなりたいのか
なぜか会社や経営者は感動的な話や綺麗事を言わなければならないような風習がある気がする。
広告を頼まれて書くのだが、「なぜこれを売るのか」や「なぜこれを開発したのか」など書くのと書かないのでは大分反応が違うことが多い。
「なぜこれを売るのか」や「なぜこれを開発したのか」と言うところで、「金儲けしたかったから」「高級車に乗りたかったから」「モテたかったら」などと書いたら広告的にはアウトだがもしかすると当初はそうだったかもしれない。
貧乏で余裕もなく心身ともに極限状態で生きるのに精一杯な人や会社が「日本を元気にしたい」などと言う理由だけで動いているのだとしたら即身仏レベルだ。
欲求やエゴがあってもいいじゃないか
広告ではない時にでさえ個人的なエゴや欲求を出すと悪魔かのような扱いをされるのは酷い話である。少しくらいいいではないか。「ギター弾いたらモテると思ってバンド始めました」くらいで。むしろその方は人間味があって好感を持てる。
なぜ苦労話や不幸話を無理矢理にでも捻出せねばならないのだろう。ある程度綺麗にまとめる必要があるのも仕方があるまい。それに広告的には苦労話や不幸話があってそこからの大逆転の方が共感され、「私でもできそう」と希望も与えられる。それに、成功体験だけでは反感や妬みをかう。広告だから仕方がないのもあるが、他人の苦労話や不幸話を広告にまで求める我々の存在も悲しいものである。
始めたきっかけが個人的な欲求やエゴであってもいいじゃないか。徐々に余裕出てくるからこそ、世のため人のため貢献しようとか「日本を元気にしたい」とか思うのが一般的な流れだろう。
むしろ余裕が全くないのに世のため人のため貢献しようとか「日本を元気にしたい」とか心の底から思っている人がいたら余程心が清い人なのか尽くすことが趣味なドMだ。
自分が幸せになる気がなければ変わるわけがない
幸福度や満足度、感じ方は人それぞれなので判断基準は難しいところだが、ある程度、自分が幸せを感じ、満たされていると感じなければ、人に幸福や元気を与えられるとは思えない。
貧しい国の人がなけなしのお金を困っている人にあげる話はたまに聞く。それは、その貧しい人が大変心の清い人であると言うのももちろんあるが、その人は精神的には余裕があって元気であり、他人が思っているほど経済的に貧しいと“感じて”いないのかもしれない。
感じ方は人それぞれで、物価も違うのだから何をどう判断するかはその人にしかわからない。
国民の97%が「私は幸せ」だと答える世界一幸せな国ブータンに行ったからといって、幸せになれない日本人はたくさんいるだろう。経済面や便利さで言えば、日本よりも貧しいのでそこに不満を持ち、不幸だと感じる人もいるだろう。
そもそもどこかにいけば幸せになれるとか、誰かに会えば幸せになれるとか、結婚すれば幸せになれるとか、他人まかせで「幸せにしてもらおう」としているのだとしたら幸せになれるはずがない。自分が幸せになる気がなければ変わるわけがない。
何かがきっかけで自分が元気になったり、幸せになるのだとしたら良いのだが、依存している限りは変わらないだろう。
経済的に貧しいと“感じて”いても精神的には豊かだと“感じて”いるのであれば「日本を元気にしたい」などと思うかもしれない。
だが、少なくとも精神的にも経済的にも余裕がないと感じている人が「日本を元気にしよう」などと思うとは私には到底考えられない。
理念やキャッチコピーに「日本を元気にしよう」と大々的に掲げている人は、実際に心の底から「日本を元気にしよう」と思っていたとしても、私のような疑い深い人から「綺麗事ではないか」と思われていることを忘れないでいただきたい。
今の私には「日本を元気にしたい」と言う余裕はない
なお私は精神的に病んではいないし、生活できないほどには困っていないが、日本に元気を分け与えられるほどの活力はないし、今は与える気もない。
仕事として広告を作って売上はサポートするが、元気になるかは相手次第だ。売上が上がったところで、相手が元気になるとは限らない。
“日本”もそうだろう。売上が上がり、富裕層になったことで精神的にも経済的にも余裕ができ、感謝の気持ちが湧いてきて、多くの人に貢献したいと考えて慈善事業を始めたり、寄付をし始める人もいるかもしれない。
一方で、もしかすると大金持ちになって嫌な会社や人間になってしまうかもしれない。売上が大幅に上がり、お金を儲けたことによって酒池肉林の日々になり、心身ともに病んでしまい、借金まみれになってしまうかもしれない。
売上が上がったことでどうなるかは、相手が決めることである。あくまで私がしていることは、きっかけ作りに過ぎないのだ。少なくとも今の私には「日本を元気にしたい」と言う余裕はない。余裕もないのに綺麗事も言いたくない。
見掛け倒しの商品を撲滅したい
ただ私は、酷い商品・サービスなのに見掛け倒しで騙しているモノや人を撲滅したいだけだ。だからこそ、良い商品・人・サービスが報われるように、それらの広告書いて欲している人に届けたい。正直、世のため人のためとは思っていない。お客様の売上が上がれば楽しいと言う感覚も大いにある。
だが、自分が「いいな」とか「すごいな」「広めたいな」と感じて気に入ったものしか宣伝も応援もしたくない。ここには個人的な私の感情が入っている。酷く訳のわからない商品・サービス・人に振り回されるのはこりごりなのだ。なぜまともな商品が損しなければならないのだ。
広告向けに綺麗にまとめるならば、「良い商品・サービス・人を宣伝して多くの人に届けたい」とか、「双方を幸せをにしたい」とかになるが、根底には怒りがあり、綺麗なものではない。
良い商品・サービス・人の広告を作って宣伝することで、見掛け倒しの酷い商品・人・サービスを淘汰していきたいのである。そう、ただ個人的に許せないものを職権乱用で撲滅したいだけなのだ。