- コピーライターにどうやってなったか
- webディレクターにどうやってなったか
- 出版業界への就活事情
- 双葉社の就活事情
- ホームページ制作会社への就活事情
- 他業界からのweb業界・広告業界への潜り方
- アニータ江口の詳しい職歴
などを知りたい人には、ほんの少しは役にたつかもしれない。
ただし、長い上に自分語りの回顧録のようだ。なので、忙しい人は興味があるところのみ、目次から選んで読むことをオススメする。
出版業界を志望していた就活生時代
2009年、双葉社に最終面接で祈られた
2009年5月、私は双葉社の最終面接に落ちた。2010年度の新卒採用組には選ばれず、お祈りされたわけである。
二次面接では「エンジェル出版」について質問し、笑いをかっさらったほどリラックスしていたのだが、最終面接ではド緊張。顔は真っ赤になり、頭は真っ白。面接してくださった役員の方に「水を飲みますか?」と心配されたほどである。
2010年、双葉社に入社したのは確か3名。2名とは面接後にベローチェで話している。2ちゃんねるの就職板の出版スレにいた人達だ。懐かしい。
約束したのはスレ上の書き込みであり、もちろん連絡先なんて書いていない。ただ「双葉社の最終面接後に飯田橋のベローチェで会おう」と約束しただけだ。
だから、会えたらラッキーくらいにしか思っておらず、半分信じて半分疑っていた。にもかかわらず、本当に会えたし、実際会ったのだから面白い。
約束通り、最終面接後にべローチェで会ったのだが、別れ際に「もし受かったら『ベローチェ』とだけ書き込もう。自分たちだけがわかるように。」と約束した。
そして後日、「ベローチェ」という書き込みを2件見た。そう、2人は受かり、私は落ちたのである。
敏腕編集者・箕輪さんが2010年入社だった
先程、今話題の編集者・箕輪厚介さんの記事を見つけ、なんとなく流れでプロフィールを見た。すると、目に飛び込んで来たのは「2010年双葉社入社」。これには驚いた。
私が会った男性の顔は思い出せない。ただ、きちんとしていたという覚えだけはある。お互い本名は名乗らなかったのでわからないが、箕輪さんではなかったような気がする。
あくまで箕輪さんのプロフィールや逸話を読んで学生時代を想像した印象なので言い切れはしないが。
あの2ちゃんねる経由で会った2人は、某大手メディアに前年受かったのに蹴って「出版社に入りたい」とのことで就職浪人した男性と、競艇が好き過ぎて『モンキーターン』にはまったので双葉社に入りたいと言っていた女性だった。
面接後にそれらを聞いた時、すでにこの人達は双葉社に受かるだろう」と確信したし、熱意の違いから「この人達は受かるべきだ」とも感じた。はなから違うのだ。
入社組の格の違いから自分の落選に納得
前年に某大手メディアを蹴った男性は、次の年に受かるかもわからないのに、そんなリスクを冒してまで「出版社に入りたい」という熱意があった。不安だとも言っていた。
きっと周りにも「もったいない」とか言われただろう。出版不況だとわかっていても出版社に入りたいと言っていた。
そして、競艇が大好きでモンキーターンにはまったという女性は、他の出版社に行きたいのではなく「『モンキーターン』の出版社である双葉社に入りたい」とのことだった。双葉社だってそういう人の方が嬉しいだろう。
その女性はマスコミ塾にも通っていた。そして、OBOG訪問をしたというが、自分の大学にはOBOGがいなかったので、他大にまで探しに行って話を聞きに行ったとも言っていた。行動力も行動量が違う。
もう8年前の話だがらもう違うかもしれないが、その女性がOBOG訪問をした際に教えてもらったという情報によると、双葉社は例年3名取るという。
傾向として、2名は男性、1名は女性。そして、1名は真面目な秀才タイプ、1名はぶっ飛んでいるタイプを選んでいるとも言っていた。これを考えると、さらに合点が行く。あの方々があてはまるからだ。
あの2人に会った時も「ああ、負けたな」と感じたが、箕輪さんもあの時に入っていたのだと考えると格が違いすぎる。
2010年入社組が凄過ぎて自分が落ちたことに改めて納得した。あの方々は入るべくして入ったのだ。
出版業界を目指していた理由
結局私は、2010年5月に双葉社からお祈りされた後、出版業界に絞った就活をやめた。夢から醒めたというよりかは、放心してしまったのだ。
悲しくて、本も漫画も見たくなくなった。こんな風になる時点で、それまでの熱意だったのだろう。
リーマンショック後のただでさえ氷河期だったのにもかかわらず、多くて10名、大体2、3名しか取らない出版社に絞るなんてトチ狂っていると言われていた。自分でもそう思う。
振り返って見ると、子供の時から本や漫画を読むのが好きだった。小中学生時代に同人活動をして、作って売っていた時代もある。美術部長でも会ったのでその権限で「資料です」だとか言って、よく漫画を持ち込んでいたのも懐かしい。
作文を書くのも好きだったし、子供時代の過去の栄光ではあるが、よく賞をもらっていたのでそれなりに得意だったとも言えよう。
高校生や大学生になってもその傾向は続いていたし、文学部に進学した理由の一つでもある。出版編集プロダクションでアルバイトをし、その頃から出版社に入りたいと感じていた。
いざ就活を始めた時は、とりあえず色々な所にエントリーシートを送ってみたが、結局まともに通るのは出版社ばかりで、面接も通りが良かったのでお呼びかと勘違いしてしまったのである。要は、夢を見ていたのだ。
出版業界を諦め、他業界の夏募集に苦戦
その後私は、大学4年の5月から6月までは教育実習をし、7月から就活を再開した。正確にいえば、出版業界に絞らない就活を始めた。3年の10月から4年の5月まで出版社を追い続け、やっとそれをやめたのである。
とはいえ、「出版社を受けるのをやめる」ほどのご身分ではなかった。リーマンショック後の氷河期、ただでさえ募集している会社は少なく、わがままも言えない状態。
留学組に狙いを定めた夏募集の大手企業には箸にも棒にもかからない。説明会に行くだけでも肩身が狭かった。隣に座った人に「どこに留学していたんですか?」なんて聞かれるのだ。あまりに辛過ぎる。
とにかくどこかに入れてもらうため、就活をした。2009年10月の就活開始から通算して100社以上はエントリーしたと思う。エントリーで履歴書も同じくらい書いたはずだ。
ただし、それまで出版社のためだけに就活をしていたので、得意なのはマスコミ向けの特殊なテストや作文。
周りがきちんとSPIの勉強をやっている時に、「マスコミテストには使える」と聞いたマジアカのゲームをやり込んだり、作文の三題噺に挑戦していたのだ。当然、どんどん差ができるに決まっている。
そのため、一般的なエントリーシートもまともに書けないし、SPIも苦手なままだった。テストセンター受験が必要だった会社も、もしかすると成績が悪くて落ちていた可能性だってある。SPIの非言語問題が異常なほどに苦手だったのだ。
出版業界に絞るのはリスキー
私は今まで何をやってきたのだろう、なぜ出版社以外の業界研究や勉強しかしなかったのだろうと後悔した。
当時、かなり殺気立っており、死に物狂いだった。「こんな頑張っているのだから」なんて勘違いして、なんとなく受かる気がしてしまっていたのだ。あの双葉社の最終面接後に2人に会うまでは。
どこの出版社も大体倍率は1000倍近いのに、何を夢見ていたのだろう。あの時の自分が怖いし、出版志望者にこそ、この業界だけに絞るのは危険だから避けた方が良いと伝えたい。
出版業界に絞ったからといって受かるわけではない
これはあくまで私の周りの人の話や知っている情報によるが、双葉社くらいの中堅クラスだと、本当に本好きだとか漫画好きだとか、「出版業界に入りたい」みたいな人が入っている。
だが、集英社や小学館、講談社の大手3社になると、他業界の大手企業にも受かっている人や、出版業界はおろかマスコミに絞り込んでいない人もいる印象だった。
確かに全員が編集職になるとは限らないのだから、総合的にできる人も採った方が良いとも言えよう。
あまりにオタクだったり、自社商品(本)や著者や漫画家を愛しすぎると客観視できなくなるし、多面的な見方ができなくなる。つまり、お客様である読者を置いてきぼりにしてしまう危険性もあるのだ。
だからこそ、他業界でも成功しそうな人も重要だ。特に大手に入っていった人からはそんな印象を受けた。中途で他業界から人を入れる時も、現状打破のために新しい見方やアイディアが欲しいというもあるだろう。
出版社はエントリーシートは8枚あったり、1枚丸々が白紙で自由記述だったり、キャッチコピーを考える課題があったり、作文添付がデフォルトなので時間も労力もかかるから負担が大きい。
面接後のテストも作文や特殊なものが多いので、それ用の対策が必要になる。今考えてみれば、面接で聞かれた質問も不思議なものだった。
テレビ業界や広告業界は受けていないし、新聞業界は面接まで進んでいないのでわからないが、多分それらも特殊な気がする。マスコミ塾が存在するのもこういう理由だと思える。
ある意味、負担を増やすことで、本当に入りたい人かどうか、篩に掛けているのだろう。
就活に失敗した私に足りなかったもの
このように、出版社にエントリーするだけでも時間も労力もかかるからこそ、それに注力するために、早々とSPIだとか面接対策をしていた方が良いだろう。しておかないと、ぶっつけになってリスクが高すぎる。
当時の私にはそれが足りなかった。正直戻れるならば、「紙ではなくwebも考えろ」とか「広告業界も考えろ」と言うだろうけど。
今では「どういうエントリーシートだと通過しやすいか」だとか「うまい自己PR文」だとかは思いつくし、お客様の自己PR文を作ったり、職務経歴書の添削さえしている。
だが、これは営業や広告を経験したからわかること。当時はそんな勘が良い学生でもなく、思いつかなかった。
校内の就職説明会にもOBOG訪問にも行かなかったのも失敗の一因だろう。ただただ、就活本を読み漁っては王道な自己PR文を暗記するなど、おかしな方向に行っていた。出版業界以外に興味がなかったので、そうするしかないと思っていたのだ。
大学卒業後、他業界に進むことに
結局私は半導体メーカーに入った
結局やっと受かったのは8月。それが1社目に入った会社である。半導体メーカーの財務職だ。BtoBの中小企業である。おそらく電機メーカーの人くらいにしか知られていないニッチな会社だ。
今でも経歴を話すと「メーカー志望だったの?」「なんで財務職?」「1社目だけ全然違うね」と言われる。ここしか受からなかったし、やっと拾ってもらえたのがここだったのだ。それ以外の理由はない。
8月にここの内定が出てから就活を続ける気力もなかったし、10月は内定式。1社目には悪いが、もう私は会社や仕事に期待することもやめ、やる気をなくしてしまった。
選んだ理由としては、安定しているニッチ業界であり、「ブラック企業ではない」とは聞いていたから受けたわけで、希望ではないが特に嫌でもなく、唯一受かったから行っただけだ。もはや淡々と仕事をし、アフター5を楽しもうくらいに考えていた。
財務職になったのも偶然だ
財務職になったのも偶然だ。希望部署なんて一切聞かれなかったので会社が決めたことである。
それに当初は、女性は家から通う前提で採用されたのに東京勤務にならず、往復8時間かかる工場配属になり、毎日始発通勤をしていた。
研究所での仕事は面白かったものの、さすがに心身ともにおかしくなってきたのでどうにか本社にしてくれと頼んだ。あのままだったら辞めていただろう。
結局、3ヶ月後、本社の経理部財務職に異動になり、正式に配属になった。事務職、さらに経理財務なんて私に1番合わない。会社は何を勘違いしたのだろう。しかも残業も多かった。
数学の模試偏差値が30だったことを知っていた友達にも「財務課とか1番合わなそう。絶対数学の〇〇先生も笑うわ。」とも言われた。ルーチンワークも細かいことも嫌いなので、特に嫌なことはなくても本当に苦痛だった。
ただし、工場に通うよりは通勤時間は往復8時間から往復4時間に短縮されたので、我慢することにした。それに、会社の人はいい人が多かったので、やる気はないがなんとか淡々とやり過ごした。
ルーチンワークの事務が苦手で営業に
在職中、複数の人に「営業に向いている」と言われたのをきっかけに試しに営業塾「トップセールスレディー育成塾(TSL)」に通い始めた。そこで「営業」に偏見があったことや、実はやりがいがあって面白い仕事だということに気がついた。
とはいえ、その会社は古い体質の会社であり、女性は営業事務にしかなれなかった。それに、女性は総合職にもなれない仕組みだった。
総合職になりたいと直談判したものの「中国に行きたいか?」と言われ、そこまでの意欲もないので、2年半務めたのち、退職。その後に受かった、日本生命に入社した。
エリア担当の営業職で正社員採用だったので、給料は固定で歩合組よりはきつくない。とはいえ、保険営業はきついものはきつい。だが、挑戦したい気持ちがあったのだ。
もちろん、出版社に行きたい気持ちがなかったと言えば嘘になる。ただ、未経験者の壁は厚かった。
もし本当に行きたいのならば、たとえ零細出版社や編集プロダクションでも潜り込み、努力する必要はあったのだ。数社応募したもののやはり落ちた。あの双葉社の中途募集もだ。
「もう出版社に入るのは無理なんだ」と再度打ちのめされた。飯田橋駅からは双葉社が見えるのだが、余計に双葉社があった飯田橋に行くのが辛くなり、近づくと目を背けるほどになった。その当時でもなお、最終面接で大失態した時の悪夢を見ていたからである。
そんな経緯もあり、出版社は諦めた。そして、向いていると言われた営業職に進むことにしたのである。
営業職に惹かれた理由は、結果がわかりやすい上に、自分の努力次第で変えられるのに惹かれたからだ。また、外に出たい欲が強かった内勤の私には魅力的だったのである。
喰わず嫌いしていた業界・職種が意外と合うことも
就活時代は営業を毛嫌いしていた私からしたらおかしな話だ。当時は、出版業界以外の業界研究はまともにせず、しかも編集職のことしか考えていなかったのである。
だが結果的に営業職につき、職域内で担当顧客数1位になったり、1年間で達成するべき個人目標、つまりノルマを2ヶ月で達成したので、それなりにはあっていたのだろう。辛かったのでもうやりたくないが。
また、今ではどっぷり浸かっている広告業界だが、当時は怖がっていた。営業や飲み会がきつそうだという偏見があったからだ。事実きついのだが、広告営業という仕事内容を勘違いしていた。
さらに、以降関わる業界に近いリクルート系や、サイバーなどのwebに強いベンチャーは、美男美女かつリア充の巣窟であり、とてもではないが私には受ける資格がないと感じていた。
そのため、よく調べもせずに新卒就活時代は応募さえしなかった。入社式の写真を見ても私には無理だと感じ、とにかく怖かったのだ。
後日談だが、数年後に仕事内容を調べて興味を持ち、実態も偏見だったことに気がついて応募したのだが、結局落ちたので私はお呼びではなかったのだろう。
web業界に行き着く
本来やりたかった仕事に、やっと戻ってきた
日本生命では1年ほど務め、ストレスから体を壊しがちになり辞めることにした。その後は保険代理店の法人営業と広報に転職することになる。ただ、色々と労基的に問題があり、社長以外は全員辞めることになったので私も一緒に辞めた。
そして、次に行ったのは前職。旅館専門の公式ホームページ制作会社だ。ホームページ制作会社といっても、予約サイトも作っており、予約からの手数料から収益を出していたので、実質通販会社のようなものである。また、じゃらんや楽天なども代行していた。
職種はwebディレクター。ここでやっと、今の仕事に近づいた。やはり経歴の話をすると、「大きく方向転換したんですね」とか「なぜ突然webディレクターに?」ともよく聞かれる。だが、私の中では「やっと戻って来た」という感覚だった。
「webディレクター」という仕事に出会ったきっかけ
私の友達の中で、リクルートのwebディレクターに転職した友達がいる。大学時代、就活を通じて出会った友達だ。保険代理店を辞めることを決めた頃、その友達に久々に会った。
私にとってはリア充の巣窟のイメージだったリクルートだったが、彼女が言うにそういう人もいるが全員そうではないと。そして、「このwebディレクターの職種、〇〇(私の名前)ちゃんがやりたいって言っていたことばかりの仕事だよ。」と教えてくれたのだ。しかも、営業経験も活かせるという。
そこで初めて、「webディレクター」の仕事に興味を持ったのである。
私のイメージの中で「webディレクター」というのは、コーディングやwebデザインができなければなれない仕事だと思っていた。
確かに会社によっては、コーディングやwebデザインができなければなれない。たとえプロ並みには出来なくても、デザイナーさんやコーダーさんに依頼できるレベルのweb知識がなければできないというのが通常だろう。
webディレクターに求められるスキルは会社によりけり
ただ、リクルートに関しては、web知識は皆無で、コーディングなんてしないという。いわゆる「制作ディレクター」というやつだ。
リクルートにはシステム系に強い、いわゆるwebディレクターもいるが、制作の監督としての制作ディレクターもいる。プランナーとも言えるだろう。
彼女は求人広告を担当していたのだが、担当企業へ取材をし、広告の打ち出し方を考え、プラン構成、ライティングをするという。
撮影やデザイン、ライティングは他の人がやることが多いが、簡単な撮影や画像加工くらいはやるとのこと。また、ライターを外注する場合は大事な部分のみ自分が作り、構成は決め、「こんな風に書いてください」と発注かつ管理するのだという。
そして、その求人広告によって、応募者を増やし、採用まで結びつけるがゴールだ。広告によって集客するので、広告営業にも近い。だから、営業経験も活かせるというのだ。
そんな話を聞き、確かにこれは私がやりたい仕事だったし、今もやりたい仕事であり、「webディレクター」という仕事にかなり惹かれたのである。
これからは「紙」よりも「web」かな・・・
また、保険代理店時代に広報も兼ねており、定期的に機関紙のような冊子も作っていた。その時、書くことの楽しさを思い出したのもある。
当時はもう出版社への興味は薄れていた。何度も落ちているので今更受かる気もしなかったし、紙出版は斜陽業界だとわかっていて行きたいほどの意欲もなかった。
私は、電子書籍よりも紙の本のが好きだ。雑誌もつい買ってしまう。だから、購入者としては出版社は好きだ。
とはいえ、出版社に入れる気はさらさらなかったし、出版社の編集者としてヒットを出せる自信もなかったし、そこまでの意欲もなかった。
今では、紙系の老舗出版社もオンラインで面白い取り組みをしているところがたくさんあって魅力的だが、当時はそういうところも少なく、出版社への興味や憧れもなくなってしまったのだ。
それに、保険代理店で機関紙を作っている時に楽しみを覚えたのは、編集よりもライティングだった。まとめること、指示出すことだけではなく、自分で書いて作りたいと強く感じたのである。
そんなわけで「webディレクター」および「web業界」に興味を持った私は、そこに絞って転職活動をした。
転職エージェントに広告業界をオススメされる
この時に転職活動で利用したのは、リクルートとDODAだったが、この時のDODAのエージェントの人が本当に良かった。
今までの経歴や趣味嗜好、今後やっていきたいことや、自分の価値観や性格がわかるようなことをざっくばらんに話したのだが、「江口さんは絶対、広告業界に向いていますよ」と薦められたのだ。
その時私は、web業界やwebディレクター、文章やデザインなどを作る仕事には興味はあった。だが、これといって別にweb広告に興味があったわけではない。
それに、就活していた時は、広告業界に見向きもしなかったし、応募もしなかった。同じマスコミのくくりだと「テレビ・広告・新聞・出版」になるが、広告に関しては特に「新卒のほとんどが営業になるし、特に広告営業なんて恐ろしいところだ」と恐れ、エントリーもしていないのだ。
そんな具合の私だったからこそ、「え・・・広告ですか・・・」と言ってしまったのである。
そうしたら、「確かに楽とは言えませんし、今すぐお子さんをお考えならばおすすめはしませんが、お話を聞いた感じだと、絶対合うと思うんですよね。それに会社を選べば残業もきつくないので。」と本音でエージェントの人が言ってくれたので、考えてみることにした。
広告・マーケティングの専門書を買い込んで勉強
そこで初めて、広告業界やマーケティングの専門書を買い込み、調べ始めたのである。わからないなりに無理してカタカナ用語やら謎の職種名、広告の流れも覚えたのもその頃だが、今になって役に立っているので良かったと思う。
特にその人はとあるweb広告代理店をオススメしてくれて、調べてみたら興味を持てたのでそこを受けることにした。
ただし、未経験者で入社した人はほぼいない会社だったので、とにかく専門用語や業界内の話を頭に叩き込み、なんとか面接を突破。そして、内定を得たのである。
職種はアカウントプランナー。いわゆる、広告営業だ。物売りの営業ではなく、広告を作ることでクライアントに売上をもたらす職種である。
ただし、文章を書いたりはしない職種だった。企画や文章やデザイン案は考えるが、社内にはwebディレクターもコピーライターもデザイナーも別にいた。
だから、そこだけは当初の希望とは異なり、入社を迷っていた。
「コピーライター」を兼ねる「webディレクター職」発見
エージェントとは別に、リクルートの求人経由で見つけたのが前職。旅館専門のホームページ制作会社だ。「webディレクター」という検索ワードで検索したらヒットし、旅好きの私は惹かれたのである。
それに、ホームページ制作会社でありながら、広告制作会社や通販会社のような形態をとっていた。ホームページ制作費をもらうのではなく、宿泊予約が入ると、その予約からの手数料をいただくビジネスモデルだったのだ。
どういうことかというと、そこの会社は予約サイトも作っており、ホームページからリンクしていた。じゃらんや楽天などの代行もしていたが、独自にあのよう予約サイトもホームページ上で作っていたのである。
また、ただ作って終わりではなく、自分の担当宿に予約が入るように更新し続ける仕組みだし、宿泊プランの文章作成や写真撮影を行うだけではなく、宿泊プランの企画から入り込めるのが面白そうだった。
旅館やホテルの公式ホームページなのだから、もちろん予約サイトだけではなく、料理紹介ページや部屋紹介ページ、館内紹介ページ、温泉紹介ページ、観光案内ページ、アクセス案内ページ、スタッフ紹介ページなど多岐にわたる。
だが、そのホームページで予約を増やすのが使命であり、予約が入らないことには会社にお金が入らない。つまり、そのホームページ全体が、予約を促す広告そのものだと言えるのだ。
大変そうだとは思ったが、自分のやり方次第で旅館に貢献できるし、自分のやりたい制作に関われるし、売る仕組み作りとして営業経験を活かせると感じ、その仕事に惹かれた。
webディレクターの募集要件に法人営業経験!?
コピーライターを兼任するwebディレクターを募集していたが、今思えばあの会社が募集していたのは完全に「セールスコピーライター」だ。「売る」ためのコピーライティングをしていたのだからそのものである。
応募条件には、webディレクター・コピーライター・カメラマン経験者、もしくは法人営業経験者とあった。前者にはあてはまらないものの、私は法人営業経験者。
しかも、この会社のwebディレクターにおいては、コーディング経験もwebデザイン経験はなくてもかまわないとのこと。コーディングはwebデザイナーの人が行うからということだった。歓迎条件に入っているくらいだったので、私でも応募できると応募した。
おそらく、この会社のwebディレクターは、支配人(会長や社長クラス)と話したり、アドバイスやコンサルティング、場合によっては交渉する立場だったのと、「セールスコピーライター」要素が強いコピーライターとしてのスキルを求められたので、「法人営業経験者」も募集要件にしたのだろう。
コピーライティング・ラフデザイン案テストのために勉強
とはいえ、「面接前に、コピーライティングのテストと、ホームページのラフデザイン案(=フレームワーク)のテストは出ますよ。」と言われていた。未経験者も応募して良いけど、テストで判断するというスタンスなのだ。
事前に教えてもらっていたので、これまた広告業界同様に、コピーライティングやらホームページ制作の本を買いあさり、勉強した。同時期に広告代理店を受けていたために広告の勉強もしていたので、コピーライティングを理解しやすかったし、面白かった。
ここで勉強したことは今でものすごく役立っているし、あの頃全く意味の分からなかった難解な専門書や名著も今では重宝している。
結果的に、この旅館ホームページ制作会社のコピーライティングやラフ案(=フレームワーク)のテストは突破し、面接にも受かり、内定を得ることができた。つまり、web広告代理店のアカウントプランナーの内定以外に、ここの会社の内定をいただけたのである。
どちらも魅力的で迷ったのだが、結局、「コピーライターも兼務する」など、制作にがっつり携われるホームページ制作会社のwebディレクター職を選んだ。それが前職の旅館専門のホームページ制作会社である。
ホームページ・予約サイト制作会社のwebディレクターに
前職では、今の仕事にかなり近い仕事をしていた。webディレクターというが実質何でも屋だ。予約が入らないことには会社の売り上げにはならないので、担当宿の予約が増えることならば何でもやった。
取材・撮影・集客コンサルティング・ホームページ上の全文ライティング・ラフデザインの作成・ワイヤーフレーム作成・バナーデザイン案作成・宿泊プランの企画や提案・プラン作成・コピーライティング、グーグルアナリティクスの検証からのマーケティングなど。
その他、女将のふりして文章を書いたり、楽天スーパーセールの広告を作ったり、メルマガも作って流したり、支配人のふりしてじゃらんや楽天をなどの代行もした。
取材のために夜中に山道を機材を積んだレンタカーで走ったり、ストロボ3台に撮影傘3本、カメラ2台を1人でかかえて坂を登ったり、始発で行って終電で帰ってきたり、かなり体力的にはきつかったが、面白い仕事ではあった。あれがあったから、今があると言えよう。
本業も副業もコピーライターという生活
ただやはり面白いだけで続くわけもなく、体力の限界がきて2年でやめることにした。ただ、この仕事自体は大好きだったので辞めず、この仕事で独立することにした。
また、体力的に限界になることが予想できたので、在職中にセールスコピーライター養成講座に通っていた。平日も会社でコピーライティング、土日も副業でコピーライティングの日々。これが独立を後押ししてくれたものだ。
とはいえ、元々起業願望や独立願望があったわけでもなく、会社員そのものが嫌になったわけでもなかった。ただ、副業の仕事でとにかく忙しく転職を考える暇も余裕もなく、収入としても独立しても平気そうな金額になっていたのでそのまま移行したイメージだ。
セールスコピーライターとして独立
起業願望はなかったものの流れで独立へ
退職したのが2016年8月。その副業だったものが、今の本業だ。
媒体だけでとらえると、HPやLP、オウンドメディアなどのweb媒体の依頼が多い。とはいえ、チラシやFAXDM、雑誌広告やパンフレット、名刺などの紙媒体の依頼もある。
例えば、プロフィール文だけの依頼であれば、やることはほぼ同じであったりもするが、デザイン構成やページや文字数制限、見られるターゲット層や掲載する場所、検索流入なども気にするのであれば、紙とwebでは内容も変わってくる。
それに現在、とある出版社の外部顧問だったりもするし、雑誌広告を作ったり、電子書籍ではあるが編集の仕事もしている。特にこちらからお願いしたわけでもないのに、あの落ちまくった出版業界に回り回って関わっているのだから不思議なものである。
webディレクターの仕事も、出版社で言うところの編集者の仕事と似ている気がする。制作物を納品まで仕上げる総監督だからだ。
WEBディレクターも編集者も、各職務を兼任することも多いと思うが、制作物を企画し、打ち出し方や方向性を決め、取材をし、営業さんとも協力し、ライターさんやデザイナーさん、カメラマンさん、webの場合はコーダーさんにもご依頼してまとめ、納品まで仕上げる。結局そういう仕事に携わっているので、面白い巡り合わせである。
また、財務や保険、年金をテーマにした講座LPやDMなどの広告やステップメール、金融コラムなども依頼されて作ってきた。今までのメーカー財務種の経験や保険営業時代の知識が今にして活きているので、無駄ではなかったのだろう。
webのシステム開発している夫にも不思議がられる
それに、できないだとか言っていたコーディングだが、プログラミングを学ぶ塾の案件にも携わったことから、少しは勉強を始め、こうやってワードプレスも自力で立ち上げた。
前職はSEで、今はがっつりwebのシステム開発をしている夫には、「web業界に無縁な所にいた人が自分の近い業界に来て不思議だし、しかも、俺が検索すると頻繁に出てくるプログラミングサイトにも関わっているのだから、なんだか自分は囲われている気分になる」とも言われた。
確かに言われてみたら不思議である。しかも、夫を追ってwebの世界に来たわけでもないのに、結果的にこうなっていた。更に言えば、夫は広告関連の仕事にも関わっているので、お互い本を貸しあったり、情報共有することも多い。これもまた縁であろう。
遠回りしてきた経験も活かせている
希望通りの業界・職種に就けず、転職を繰り返し、退職の邪魔や未払いで労基に駆け込んだりと色々なことはあったものの、回り回って今があるので、これで良かったとも思える。
少なくとも、双葉社の最終面接の様子が夢に出てくることはもうなくなったし、飯田橋駅から双葉社が見えても泣いたりしなくなった。
それに私は、出版業界よりも広告業界に向いているような気がするし、作り手目線では紙よりもwebの方が向いている気がする。それに、編集職よりも営業に近い存在のコピーライターやライター、webディレクターの方が向いているような気もする。色々経験して、やっと気がついたのだ。
何屋なのか迷子なので「あなたの宣伝部長」と名乗る
今は、「集客コンサルティング&セールスコピーライター」という肩書きがメインだが、色々やりすぎて最近は何屋か不明だ。
お客様には「何屋さんか明確にした方が良い」だとか「ターゲットを絞った方が良い」とか「自分の強みを出した方が良い」だとか偉そうなことを言っているが、人のことは言えない。
やっていることの肩書きや職種を並べるならば、集客コンサルティング/セールスコピーライター/ライター/ディレクター/プランナー/コラムニスト/セミナー講師などになるが、ややこしいので「あなたの宣伝部長」と名乗っており、これがうちの屋号である。
上記以外には、取材や撮影、企画、構成案作成、デザイン、ヒアリング、通販などの売れる仕組みの構築、セミナーや講座作りのアドバイスもしている。
集客コンサルティングでクライアント様や商品の強みを引き出し、売上・集客・認知度アップのために、適切な方法を見つけ出し、それに応じた広告制作や記事執筆などを企画から納品まで行っている。
経歴を羅列すると転職回数が目立つ
淡々と経歴を書いていくと、
2009年に双葉社を落ちたことがきっかけで出版業界を諦め、2010年に半導体メーカーに入社。財務職として小口現金や売掛金、決算業務に携わった。上場準備も経験している。
財務職時代に「営業に向いている」と言われることが多かったので、営業塾に通い、営業の面白さに気がつく。
2012年、日本生命のエリア営業職へ。銀行や電機メーカーを担当し、職域内担当顧客数1位、解約件数0をキープ。
2013年、AIU保険などの外資損保がメインの生損保代理店に転職し、法人営業として会社向けの損害保険や経営者向けの生命保険を販売。結果、三井住友海上あいおい生命保険会社における1年間の個人目標基準を2ヶ月で達成。
2014年に旅館専門のホームページ兼予約サイト制作会社に転職。webディレクターやコピーライターなどの仕事をメインに活動。全国の50施設ほど担当。取材や撮影、コンサルティング、プラン企画、フレームワーク作成など、予約を増やす施策ならば何でも行った。結果、前年比平均3〜5倍の予約増なども経験。
2015年、セールスコピーライター養成講座に通い始め、セールスコピーライターとしての副業を開始。2016年に副業を本業化し、独立。
企画から制作、納品まで行い、広告制作や記事執筆で反応率を45.5倍にしたり、5千万円超の受注をクライアントにもたらした実績がある。
現在は出版社の外部顧問や、webマーケティング会社などの広告制作業務を請け負いつつ、企業様、経営者を始めとした個人の方からの仕事を直接行っている。
というように、この数年間だけで変わりまくっている。2010年からの6年間で転職回数は4回。副業時代や独立後の外部顧問や業務委託など、定期的にご依頼いただいてきた会社も含めれば+10は超える。転々としまくりだ。
ただし、何かしら今の仕事に活かせているので、悪いとは思っていない。現在、集客コンサルや広告制作、記事執筆をしているが、ここに活かせるからだ。
特に、職業柄、クライアント様の話を聞いて理解し、その上で問題解決できるアイディアを出していく必要がある。
もちろん、調べてから話を聞くが、自分で経験・体験していた方が相手の話を理解しやすいし、業界特有の事情も飲み込める。それをいかに一般の方々に伝えるかが勝負だ。
好きな仕事は続けて、好きではない仕事は譲りたい
今成功しているかと言われたらそうは思わないし、稼いでいるかと聞かれたらそうでもない。また、満足かと聞かれたらそれなりには満足だ。
とはいえ、まだまだやりたいことも、叶えたいことも沢山ある。もちろん誰だって、稼いだり、もてはやされるのは悪い気はしない。数億円積まれたら喜んでもらうだろう。
だが、それはそれで置いておいて、どちらかというと今は、自分の好きな仕事や「やりたい」と思える仕事を選び、極めていきたい。
残念ながら私は、基本的に熱意もやる気も根気もない人間だ。特にやりたくないことに関しては殊更その傾向が出る。
とはいえ、それでも問題ないとも開き直っているし、好きでやりたいことならば勝手にやるし、そんな熱意もやる気も根気もなければできないことなんて、もっとそれを好きな人や得意な人がやった方が良いとも考えている。
私を落とした会社の方々へ
綺麗事かもしれないが、自分が楽しんで取り組んだ好きなことで、結果的に人に喜んでもらえて、さらにお金がもらえるなんて最高じゃないか。
そんなわけで、ぬるぬると活動をしていきたい。
とりあえず、私を今まで落としてきた会社の方々が「ぐぬぬ・・・アニータ江口を落とした俺が馬鹿だった。あいつを入れておけば今頃弊社は・・・」と悔やんでくれるくらいには成長したい。
私を落とした会社の方々も、もし私にご依頼があれば喜んで。怒ったり泣いたりしないのでご安心を。